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母の幻覚  [Suddenly,Tendon!!]

ずっと後で、あのときのあの感覚を思い出してみると、あれは一種の「幻覚」だったのだと思います。

幻覚というのは、そこには存在していない物が、映像的にはっきりと見える現象のことだと思いますが、幻覚を見ると言われるある種の病気の場合でも、実際には映像として幻を「見る」ことはほとんどないのだそうです。
誰もそこにいないのが明らかなのに、
「そこに誰かがいる!」
と訴えるケースは、たいがい、視覚的に何かが見えたということとは違うのだそうです。

実際は、誰かが自分に「危害を加えるためにそこまでやってきた」とか「命を狙いにそこまできている」とか、そのような視覚外の感覚や感情(恐怖や不快)が非常に強くリアルに感じられることによって、
「そこに誰かがいる!」
という確信に満ちた錯覚になっているのです。
ですから、(幻覚によって)知らない人を見たと誰かが言ったとき、その相手の顔や身なりなどの「詳細な特徴」までが分かるようなタイプの幻覚はほとんどないのだそうです。

わたしのあの日の幻覚(?)も、そのようなものでした。
本当にそこに、あのおばちゃんが立っていて、わたしの本のページをめくっている「嫌な感じ」が強く強く感じられ、そのくせそこには視覚的に何も見えてはいないのです。
視覚を通り越して、直接的に脳におばちゃんが現れたかのようでもありました。そしておばちゃんはわたしの頭にべったりと貼りつき、何度も何度も迫ってわたしを苦しめるのでした。

幸い、自分の感覚がおかしいということは感じられたのでよかったのですが、あのリアルは今思うと本当に危険なものでした。
あの感覚があとほんの少し強く感じられたら、わたしは本当に「そこにおばちゃんがいる!」と訴えることになったでしょう。

(こういうのは実際には「幻覚」というより「妄想」というのかもしれません。しかし、いないはずの人が「今まさに」そこにいるというリアルな感じということで、幻覚と表現してみました)

おそらくわたしが薬に弱い体質だったことで引き起こされたこの一時的な感覚について、長い間気にも留めませんでしたが、これまで何度か思い出すこともありました。



在宅療養中だった癌の末期の母が、痛み止めのための点滴をした後のことです。
居間のベッドで母が、突然ぱっちりと目を開けて、わたしに、

「あっちに誰か来てるんでしょ?」

と言いました。
誰も来てはいないので、わたしは驚き、

「誰も来てないよ」

と答えました。すると母は、

「ああ。いいんだよ、来ていても。いるんでしょ?」

と、楽しそうに笑いました。
母が変なことを呟いた……
ですが、ときどき苦しんでいた母の、突然見せた楽しそうな笑顔が本当にうれしく感じられました。
母は続けて、

「もうそろそろ、全員集まった?」

とわたしにききました。
母の頭の中では、隣の部屋に既に誰かの気配が感じられ、これからここで何か楽しげなこと…例えばパーティー…が始まるところで、子供たちが全員集まってくると思っているのでした。
わたしが母の言葉に合わせ、隣の部屋を見に行ってすぐ戻り、

「まだだけど…、今はまだ誰もいないよ」

と答えると、母は、

「そうか」

と言って、笑って、目を閉じて眠りました。
わたしは痩せこけた母の笑顔がうれしく、予期せぬ薬の副作用とは言え、よい方向での幻覚(妄想?)が現れてくれたことにほっとしました。
もちろんその日、誰も訪れては来ませんでしたが。


母が永眠したこの頃、わたしは致命的に心に傷を負い、わたしは肉親の最期を「在宅+訪問看護」で看取る事を決してお勧めしません。
わたしは最期の母が、もっともっと安らかであってよかったのではという、実は病気での死では無理な後悔を持ち続けることになりました。
いくらどのようにしても、どうにもならないことを、「もっと何とかなったはず」という気持ちが、在宅療養では消えてはくれません。

わたしはずっと、結局は母に出てくる言葉が、

「おかあさん、ごめんなさい」

であって、叫びたくなります。

病気は仕方のないことで、そこには本人の苦しみや、家族の悲しみがあって、決して楽なものであるはずはなく、それは当然のことなのでしょうけれど、わたしはこの頃を思い出すと、そわそわして、どこか知らないところまで飛び出していきたくなります。


タグ : 在宅療養
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